日本史から見つめ直す「被害者」の真実と、西欧の先進性

近年、アニメや漫画などのエンターテインメント領域にまで、欧米から「黒人差別への配慮」や「歴史的被害者への贖罪」を求めるポリティカル・コレクトネスの波が押し寄せている。もちろん過去の奴隷制が人道に対する罪であることは大前提であり否定するものではありません。
しかし、現代の彼らの主張を見ていると、「歴史的被害者であること」を一種の特権とし、それを盾にした逆差別や価値観の押し付けが横行しているように見えています。
こうした欧米中心の道徳観に対し、私たち日本人はもっと冷静な視点を持つべきではないでしょうか。
例えば、奴隷貿易の歴史を語る際、「買ったのは白人である」と同時に「売ったのは誰か」という視点がすっぽりと抜け落ちているように感じます。
実は、日本もかつて奴隷の「供給源」になりかけた時代がありまして、安土桃山時代、おびただしい数の日本人が奴隷として海外へ流出しました。その時、硝石や火縄銃欲しさに、戦争捕虜や同胞の日本人をポルトガル商人に売り飛ばしていたのは、他ならぬ日本の大名や商人たちでした。
豊臣秀吉が禁教令とともに人身売買を禁じたことでこの流出は止まったが、もし中央集権化が遅れていれば、日本もアフリカと同じ運命を辿っていたかもしれない。
大西洋奴隷貿易も構造は同じです。ヨーロッパ人が自らアフリカの内陸で黒人を狩ったのではなく、西アフリカの強力な黒人国家が、対立する部族を捕らえ、ヨーロッパの武器と交換するために「輸出」していたのが実態です。白人が一方的に搾取したという単純な被害者・加害者の二元論では、歴史の真実は見えてこないでしょう。
このように、歴史が単なる道徳劇ではなく、冷徹な「経済的取引」で動いていたことを暴き出し、私たちが信じ込まされてきた「西欧の先進性」という神話を解体してくれる名著それが、エリック・ウィリアムズの『資本主義と奴隷制』です。
本書は、初出からすでに80年以上経ち、数多くの批判に晒され続けてきました。個別の事例で修正が必要なものがあるものの、ベースとしての考え方は正しく、現代における問題に触れる上で、避けては通れないものであると考えます。
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偽りの人道主義と、形を変えた「道徳の押し付け」
本書『資本主義と奴隷制』が私たちに提示する最も衝撃的な事実は、「白人の先進性」ので有名な産業革命が奴隷貿易による資本蓄積でなし得たということだけではありません。
イギリスがいち早く奴隷貿易と奴隷制を廃止した真の理由が、「人道主義」や「博愛」などでは決してなく、単に資本主義が成熟し、保護貿易に依存する奴隷制プランテーションが「経済的な足手まとい」になったからだという点でです。
奴隷制をやめていても、人種差別がなくならない。1807年に奴隷貿易を禁止し、1833年に奴隷制廃止法を成立し100年あまり経過した大東亜戦争時の捕虜収容所の内容を記した、アーロン収容所 (中公文庫) : 会田 雄次著を読んでもよくわかります。
つまり、彼らは道徳的に覚醒して奴隷制をやめたわけではありません。経済的合理性の前に「用済み」として切り捨てたに過ぎないのです。
この歴史的事実を踏まえると、現代の欧米が日本のアニメや漫画といったサブカルチャーに対して行っている「価値観の押し付け」がいかに欺瞞に満ちているかが見えてきます。彼らは現在、エンターテインメントの領域で「人種の多様性」や「黒人差別への配慮」を声高に叫び、日本のクリエイターにも自らのポリティカル・コレクトネス(政治的妥当性)の基準に従うよう要求してきます。
しかし、歴史を見れば、彼らが掲げる「人道主義」は常に彼ら自身の都合(社会的・経済的な合理性)で後付けされてきたものです。
かつての奴隷制廃止が経済的合理性であったように、現在の彼らがエンタメにポリティカル・コレクトネスを持ち込むのも、それが現代のグローバル市場において「道徳的であることをアピールするほうがビジネス(あるいは社会的権力)として有利だから」という側面に過ぎないのではないでしょうか。
自らの歴史的罪悪感を晴らすための「贖罪のルール」を、全く異なる歴史を歩んできた日本のサブカルチャーに押し付けるのは、新たな文化の搾取と言わざるを得ないように思います。
「被害者の特権化」を拒絶し、冷静な視座を持つ
同時に、私たちは黒人側が抱える現在の問題にも冷徹な目を向ける必要がある。過去の奴隷制や深刻な差別が絶対的な悪であることは疑いようのない事実でありますが、現代における一部の運動は、もはや「差別の解消」や「真の平等」を目指しているようには見えません。
「過去にひどい目にあったのだから、何をしても許される」「自分たちの要求は無条件で通るべきだ」という、歴史的被害者であることを利用した「特権化」や「逆差別」が横行しています。
これはもはや人権問題ではなく、被害者の立場を利用した新たな権力闘争である。日本人が現在の彼らの振る舞いに違和感を覚えるのは、そこに「対等な共生」ではなく、「道徳的優位性を利用したマウント」を感じ取っているからでしょう。
「奴隷を買ったのは白人だが、売ったのは同胞の黒人であった」という歴史の複雑さを無視し、自らを絶対的な被害者の聖域に置こうとする限り、真の解決は訪れません。
そして日本は、自らの手で日本人奴隷の流出を食い止め、該当者を罰した歴史を持つ国であり、欧米とアフリカの間にある「加害者と絶対的被害者」という歪んだ二元論に付き合う義務はありません。
エリック・ウィリアムズの『資本主義と奴隷制』は、美しい理念や人道主義の裏には、常に生々しい合理性と搾取が潜んでいることを教えてくれます。
現代のサブカルチャーに押し寄せる「ポリコレ」や「被害者の特権化」に対しても、私たちは彼らの道徳劇に流されることなく、「誰がその枠組みで得をしているのか」という冷静で独立した視座を持ち続けるべきであると考えます。

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