日本の歴史書の特異性

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日本の歴史書の特異性

通常、王室や皇室が編纂した歴史書というものは自らの正統性を示す目的で編纂されています。
『日本書紀』は西暦720年(養老4年)に完成した日本初の勅撰(天皇の命)国史で、舎人親王らが中心となり、天武天皇の意向を受けて「帝紀」や「旧辞」などの既存資料を基に、中国の歴史書スタイル(漢文・編年体)で国家の歴史を編纂したものです。
今からすると720年は相当昔の話ではあるのですが、その時代であっても既に当時を知る人が残っていない古のできごとをまとめるという大変な作業でした。

基本的には各有力氏族や皇室に伝わってきた口伝を集めて編纂したものです。
個人的な意見にはなりますが、少々他の地域の歴史書と違った日本人らしい日本特有の編纂のされ方をしているため、外国人だけでなく日本人にも誤解されやすい書物であるとは思います。

『日本書紀』という書物の持つ「特異な公共性」が示す日本人の精神性

日本書紀には一書に曰くという文言がたびたび登場します。
これは歴史書にしては稀有な異論両論掲載という形式をとっています。

先にも述べましたが本来、東西関係なく、王家の正統性のための歴史書であれば、真実であっても、触れられたくない異論を掲載する必要はありません。

敵対した勢力を打倒した場合、正統性のために〇〇といった悪事を働いていた〇〇を民の協力の元にわが王朝が征伐し〇〇地域を統一した。みたいな感じで多少脚色や誇張が入った記載というのは必ず発生するものです。

日本の場合は、「負けた側」の神話を消しません。出雲の国譲り伝承がその最たる例ですが、皇室に抵抗した勢力の神話や系譜も、あえて「一書に曰く(別の説ではこうも言う)」という形で残しています。これは、相手の存在を認め、その魂を「祭る(鎮魂する)」ことで調和を図る、日本独自の「共存の論理」です。

「他者の伝承を排除せず、むしろ保存する」という姿勢が、聖徳太子の「和を以て貴しとなす」という歴史慣習(憲法)の具現化であるという視点は、日本文化の本質を鋭く突いているのではないかと考えます。

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「一書に曰く」は「和」のアーカイブ

例えば、中国の易姓革命(王朝交代)の論理では、前王朝の正統性は徹底的に否定され、勝者の物語だけが残されます。

わかりやすい例でいえば、
商の最後の王・紂王(ちゅうおう)が暴虐で酒池肉林に溺れ、天に見放された。文王・武王がいかに徳を備えていたかを説き、「天命」が商から周に移ったと主張しました。これにより「家臣が主君を討つ(放伐)」という行為を、天の意志による正義へと昇華させています。

正統性のための歴史書なのでかかわりのない他の記述はいい加減であいまい。
史記では近隣に四川文明 長江上流域に位置し、三星堆遺跡(さんせいたい)や金沙遺跡(きんさ)に代表される、黄河文明に匹敵する高度な独自の文化についてはまるで記載がなく、敵対勢力としても登場しません。

日本の場合は「誠実な合意形成」の記録として、天皇の正統性を主張しつつも、周囲の有力氏族(蘇我、物部、中臣など)が持っていた伝承を完全に無視すれば、国家としての統合(調和)が揺らぎます。日本書紀は、当時の日本を構成していた各勢力の「記憶」をゆるやかに統合し、ひとつの「公共の記憶」として編み上げた、非常に高度な政治的・誠実な書物であると考えられます。

編纂方法が特殊ゆえに誤解を招く

こうした「和」の編集方針が、皮肉にも現代の陰謀論や外国人の誤解を招く原因になっています。

「一貫性」を求める西洋・大陸的思考

西洋や中国の論理では、書物とは「ひとつの真理(または一人の勝者の意思)」を示すものです。複数の説が並んでいると、彼らには「どれが本当なのか決まっていない」「何かを隠しているのではないか」という不安や不信感を与えてしまいます。

陰謀論の「隙」としての異説

誠実に異説を載せたことが、現代のロマンを求める人々(あるいは陰謀論者)にとっては、「あえて残された秘密の暗号」や「消された真実の断片」に見えてしまいます。「一書に曰く」を「誠実な併記」ではなく「隠蔽の痕跡」と読み違えてしまうのです。

もし、皇室にとって非常に都合の悪い物事が意図的に消されていた場合にどうなるか。
他の有力氏族の口伝を抹殺することができないが故に、他の権力を目指す勢力への格好な攻撃のネタ、弱点となったでしょう。
日本においても有力氏族の没落は存在します。物部氏や蘇我氏がいい例でしょう。
ただ一族郎党抹殺されたわけではなく、改姓して生きながらえています。
都合の悪い過去のネタにより皇室はとっくに「権力欲の餌食」となり、消滅していた可能性は高いでしょう。しかし、少なく見積もっても1500年以上にわたって存続しているという事実は、その根底にあるのが「嘘」ではなく、「多少の不都合や異説を包摂した上での、圧倒的な公共への誠実さ」であったことを示しています。

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「誠実さ」という名の防弾性

日本書紀は「日本人らしい非常に誠実な書物」です。

もし皇室が自分たちの都合だけで物語を捏造しようとしたなら、わざわざ矛盾する異説を並記する必要はありません。異説を載せることは、書物としての論理的一貫性を損なうリスクがありますが、それでもなお載せたのは、「当時の人々がそれを事実だと信じていた」という事実に対する歴史的な誠実さがあったからです。

争った相手を「悪」として切り捨てるのではなく、神として祭り上げ、その由来を記す。この「敬意」の文化は、世界的に見ても極めて稀有なものであり、日本の法治主義(ルールを守り、相手を尊重する)の源流と言えるでしょう。

まとめ

『日本書紀』を「素直に」読むということは、単に字面を追うことではなく、その編集方針の根底にある「他者の記憶を消さない」という深い公共心を理解することに他なりません。

外国の研究者や陰謀論好きが、そこに「一貫性」や「隠された悪意」を探そうとするのは、彼らが「和の論理」というOS(基本ソフト)を持っていないからかもしれません。

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