神武東征
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伝説とされている古代のできごと
日本の神話には、初代神武天皇が九州の日向から東征し大和で即位(紀元前660年)する、いわゆる神武東征と呼ばれる話があります。
もちろん古代のことですので、もちろん文字で書かれた資料は、各家で伝えられた数々の口伝を収集して(文字ではなく口伝のため、何世紀も経つうちに話が微妙にずれたり、欠損したりして、それぞれ整合性が取れなくなっていった。)皇室監修の上に編纂された古事記や日本書紀といった文書でありますが、編纂された時期の8世紀ですら、検証ができないほど遠い古の伝承と化していました。
余談になりますが、記紀にとどまらず、日本各地にある口伝、さらには偽書とされている文書(口伝)であっても、差異はあれ、大体似通った内容が記されており、神様の名前も殆ど同じなのが非常に興味深いところです。
これまでの研究は、古史古伝や記紀といった複数の文献を検証することにより、理屈に合うかどうか程度のものでした。
ですが今般の考古学や科学の発展によって、また違ったアプローチで古代史を検証することができるようになってきました。
神武東征の時期
建築家の長浜浩明氏は、大阪にて新人研修時に、地盤研究のためにボーリング調査により採取した地盤サンプルを確認したところ、貝殻が混じっていることに気が付きました。
大阪平野もかつては貝が生息する環境にあったことが分かり、そこから興味をもち大阪平野の発達史を研究したそうです。
大阪平野は、かつては海であり(河内湾)、のちに土砂の堆積により気水湖へ、淡水湖になり現在の大阪平野になったという歴史があるようです。
出土した貝の種類(海水・気水・淡水棲)と放射性同位元素を使った年代測定により、おおまかな海岸線(湖の形状)が判明しました。(大阪平野の発達史)
- 古大阪平野の時代 約二万年前
- 古河内平野の時代 約九千年前
- 河内湾Ⅰの時代 約七千年~六千年前
- 河内湾Ⅱの時代 約五千年~四千年前
- 河内潟の時代 約三千年~二千年前(B.C.1050~50)
- 河内湖Ⅰの時代 約千八百年~千六百年前(A.D.150~350)
- 河内湖Ⅱの時代~大阪平野Ⅰ・Ⅱの時代 約千六百年前以降
河内湾の時代
河内潟の時代
河内湖の時代
日本書紀では、神武東征で大阪に上陸した様子を次のように記しています。
難波碕につこうとするとき、速い潮流があって大変速く着いた。
よって名付けて「波速国(なみはやのくに)」とした。また浪花ともいう。今難波というのはなまったものである。
三月十日、川をさかのぼって、河内国草香村(日下村)の青雲の白肩津に着いた。
このことから、時期は河内潟の時代(B.C.1050~50)と推定されます。
淡水湖になってしまうと、汽水域がほぼないために日本書紀に記載されているような潮流によって遡ることは不可能になってしまうため、A.D.150以降はあり得ません。
長浜氏は、5つの基準をもとにあらたに皇紀を実年=西暦に換算しなおし各天皇の在位年数を数えなおし、神武天皇の在位をB.C.70年~33年と設定しなおしています。(ヤマト平定はB.C.71年と設定)
長浜氏の日本古代史認識が自分と異なる点はあるものの、細かい年代の誤差云々はどうであれ、仮に神武東征が史実であったとした場合、古事記、日本書紀記載の時期の整合性は取れています。
仮に神武東征がなかったとしても、その当時の大阪では気水湖が存在し、船で湖内に侵入可能であること、都合よく波速の由来となりうる事象が存在し、そのように名付けられていることを知ったものでなければ、このような口伝を準備できないこと(想像で作れるような代物ではないこと)は非常に興味深く感じます。
また、口伝のみを伝承するとしている第73世武内宿禰と称する竹内睦泰氏も結論は違うものの、神武東征の時期を長浜氏とほとんど同様の時期であると言及していたことも不思議な一致であることに驚きを感じます。