兵農分離について

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織田信長

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兵農分離

「兵農分離」といえば、ちょっと歴史に詳しい人であれば「織田信長」の名があげるのではと思います。

兵農分離を実行し、常備軍を創設。楽市楽座を奨励し、自由経済を推進。合戦においては長い槍を導入し、鉄砲にいち早く目をつけ、世界的に見ても遜色のない鉄砲戦術をとりました。
おかげで織田軍は、兵農分離が進んでいない他の大名、独立勢力、国人衆の軍よりも強く、合戦では有利に作用しました。

また信長はカリスマタイプで、部下に対する慈悲もなく、権威をものともせず官位を固辞し、最終的には自己神格化し、室町将軍はおろか天皇さえ超越しようとしていた。

だいたい一般的なステレオタイプの織田信長像というのはこうなるのではないでしょうか?(ちょっと大袈裟だったかもしれませんが。)

さて、今回の記事は「兵農分離」についてです。

一般的にイメージされる信長像と史学会で認められている信長像があまりにもかけ離れており、本来の信長の素晴らしさに関しては、「大間違いの織田信長」を読んで補完していただければと思います。

最近では「兵農分離はあったのか」(未読)という書籍がでているくらいですが、今回はあったか、なかったかについて触れません。

ひょんなことから小説投稿サイトに投稿されているファンタジー作品を複数読む機会がありました。
そこで目についたのが兵農分離された軍隊とそうでない軍隊の違いについて言及されている物語をいくつか確認しました。
中には兵農分離という単語は使われてはいないものの内容としては同じものがありました。

どのようなことが書かれていたかというと。
A国の軍は兵農分離が済んでおり、兵農未分離であるB国の農繁期を狙って侵攻し、年貢(収入)に損害を与え、B国はジリ損になり敗北に向かう。
といった感じです。

兵農分離の通説

通説としての兵農分離の利点は、兵農分離をしている軍は、武士と農民が完全に分離した常備軍で戦の専門家。
なので武田や上杉家のような兵農未分離の軍よりも戦争に強く、1年中いつでも動員可能で、進撃速度にも違いがあった。

まず、戦国期に農繁期に軍を動かさなかった大名は、たまたまなのか必然であったのかわかりませんが、調べた限り島津氏と長曾我部氏のみです。

もしその兵農分離の利点がなりたつのであれば、ナポレオン戦争はありえません。

ナポレオンの軍隊は市民の軍で敵対する王侯の軍は傭兵が主でした。
自分の財産は自分で守り、自分の利益は自分で勝ち取っていくのを現実的に実践したナポレオン軍は当時あまりにも強かったので、
各諸侯はナポレオンに対抗するため自らの利権をつぶす「立憲君主制」を編み出しています。

ギリシャ、ローマもそうですが、いつの時代も地域共同体軍は、結束もあり強いものです。

また、イギリスの産業革命を起こせません、プロレタリアートはどこから来たのかという説明ができません。

農地よりプロレタリアートが都市に集まっているのにもかかわらず、農地では農業生産力が向上しています。

今回、欧州を比較対象にあげましたが、当時は東西かかわらず、平均寿命が短く多産の傾向にありました。

長子を徴兵するのはよっぽどの場合で、基本は農場余剰人口(長子以外)を徴兵しております。(先の島津・長宗我部氏は長子も徴兵したと推察されます。)

徴兵されている間は、食は保証されますし、場合によってはほかにも利益が出る場合があります。

上杉謙信は関東遠征で越冬していますし、上杉、武田両氏は、第二次川中島では200日もの長期に渡って対陣しています。

雪で冬に三国峠を越えられなかったという事例は存在しますが、問題は兵農分離云々ではなく、動員可能な資金と動員するべき兵となる住民を養える石高があるかどうかでした。

兵農分離といって私が思い出したのは黒澤明監督の「七人の侍」(1954年)です。
脚本は入念に練り上げられ、非常におもしろき映画で好きな映画のひとつです。

三船敏郎演じる菊千代(きくちよ:よく考えたらいい年こいて幼名)は、農民出身だということを隠し振舞っているが、志村喬演じる島田勘兵衛(しまだかんべえ「かんのひょうえ」)に看破される。

証拠となった家系図の生まれが天正2年甲戌 2月17日生まれで13歳には見えぬと嘘がばれる。

さて、その天正2年は西暦で言うと1574年になります。
13歳とすると数え年ということで、「七人の侍」は1586年の物語になります。

勘のいい方はお気づきになったかと思いますが、豊臣秀吉の刀狩りを発布した1588年より昔の話で、当時の農民は半武半農で一般的なイメージの江戸期の武装していない農民は当時存在していません。(江戸期であっても長期旅行に行くときは道中差しをしており、長さの指定はあるものの完全非武装ではない。)

検索してみたら、すでにこのネタを記事化されている方がいらっしゃいました。

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兵農分離による強兵化

また、織田信長の軍は戦争に強かったというのも誤りです。
上杉謙信、武田信玄、毛利元就あたりの勝率は100%付近でほとんど負けなしです。
(勝率をあげて豊臣秀吉を1位とする記事がありますが、勝利条件も杜撰で偏った算出法をとっておりますので、参考にしておりません。)

一方、織田信長の勝率はおおよそ7割程度、上の3名から比べるとかなり下がります。
さらに徳川家康のほうが負け戦が多いです。

ただし、信長が無能であったわけではもちろんありません。天下(近畿)を取り、全国統一の基礎を作ったのは紛れもありません信長です。

信長のすごさは、尾張・美濃を取った時点で余生を悠々暮らせるほどの収入が得られました。
が、天下を取るために尾張・美濃で得られる年収の3倍の借金をして上洛。
その後のスピードが尋常ではないほど早く、異常なほどの短期間でたくさんの数の合戦をこなしています。

以前の記事「戦略で分析する古戦史 川中島合戦 海上知明 」でも触れましたが、武田信玄は負けないことを最優先とした、時間の概念がない孫子の兵法に忠実であったがために、負けはしなかったものの時間に敗北しました。

信長はたくさんの合戦を行い、敗北も多いながらも大きな戦では負けなかった。致命的は敗北はせず、負けそうになれば早々に退却しています。

楽市楽座、堺を抑えたことによる収入向上といった要素も大きかったと思います。

大きな借金をしての上洛であったため、時間とお金に余裕がなく、朝廷からの官位(出費が増える)は断ったものの、その年のうちに断った官位を再取得しています。

また最後の最後まで権威をうまく使っています。
対立する同族と対抗するために、主筋にあたる織田家の権威を利用し、次にその主筋にあたる斯波氏を利用し、足利氏を利用しと基本的に権威を認めうまく活用しています。

比叡山を焼いたというイメージがありますが、神社は全く焼いていません。

織田家は忌部氏出身という説、越前出身の神官の出という話もあります。忌部氏の復権を狙うことはあっても藤原氏ですら壊すことがなかった、男系と五代の法則を破ろうとしたとは考えにくいと思われます。

兵農分離のはずが、いつのまにか織田信長の話にすり替わってしまいましたが、本日はこの辺で。

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