元寇の評価について

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従来の説と現在の説
現在の歴史教科書上での元寇の記述はどのようになっているのか、全く把握しておりませんが、私の学生時代では鎌倉時代に2度、元(モンゴル)によって日本が侵攻され、この元寇と呼ばれる戦において、集団戦法を使った元軍に対し、日本側は個人戦法であったので苦戦。たまたま起きた台風(神風)によって元軍が敗北。日本は九死に一生を得たと習いました。
また鎌倉の武士が一騎打ちの名乗りをあげている最中にお構いなしに攻撃されたとも、てつはう(鉄砲)の音に驚き、戦いにならなかったとも聞いた覚えがあります。
現在においてはこの史観はほぼ否定されていますが、世間一般に浸透しているかどうかというとまたまだ根強く残っているのではないかと思います。
この説はどのように生まれたのかというと、八幡愚童訓(はちまんぐどうくん)という記録が出典元になっています。
これは鎌倉時代中期・後期に設立したと言われる八幡神の霊験・神徳を説いた寺社縁起である。
(Wikipediaより)とのことです。
こちらには元寇(文永の役、弘安の役)の記録として有名で対馬、壱岐について記された資料としては他にないとされています。
八幡信仰の布教用の書物のため、この書物には八幡神が起こした台風(神風)のおかげで蒙古軍が退散したと書かれています。
鎌倉政権においては、蒙古の襲来を防いだところで新たに得られた土地もなく、与える恩賞に限りがあり、(実際に恩賞を与えられたのは御家人のみで恩賞にあぶれた者たちが後年、悪党<北条氏に歯向かう強い人>となりました。)八幡愚童訓の解釈は政権にとっても非常に都合が良かったため用いられたと思われます。
戦後、日本を貶めたいと願う勢力と利害が一致し客観的に検証されずに今に至ります。
敗者たる敵方、高麗の記録を紐解いてみると以下のように記載されています。
高麗史 金方慶伝(金方慶は高麗王朝の将軍)
文永の役
文永の役では、蒙古・漢軍約2万人、高麗軍約5千人程度、高麗水夫6700人。対馬壱岐は順調に占領し、九州上陸(10月20日)では奮戦したものの、形勢は不利で撤退(軍の統制がとれなくなり、軍事物資が枯渇した)。船に乗り込んだときに暴風にあい、多くの軍船が破壊され帰還できたのは900隻中の400隻程度であった。(11月なので寒冷前線でしょうか。当時は寒冷期)
日本から拉致した童男童女200人を高麗王と妃に献上した。
金方慶は日本侵攻の不手際で譴責され、謀反と横領の罪でフビライに捕らえられ鞭打ち後島流しにされた。後に許され帰還した。
弘安の役
弘安の役では高麗軍の司令官として兵1万人を率いる(他に東路軍にはモンゴル人・漢人からなる3万人がおり、後に合流する南宋軍は10万人)、前回同様に対馬壱岐までは順調に確保できたが、九州上陸は優勢な日本軍に阻まれことごとく失敗し、南宋(江南軍)10万を合流するために壱岐まで撤退。食糧不足と疫病の蔓延により3000余人死亡しつつも南宋軍と合流し鷹島沖に集結し上陸を再開したものの、日本側の頑強な抵抗にあい上陸はうまくいかず、海上にて台風(7月)にあい壊滅。さらに日本側の追撃を受けたと記述されています。
だいたい元史においてもおおむね同じ内容が記載されています。
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汎海小録(モンゴル帝国の官吏・王惲)
武装は弓刀、甲冑で長柄は無い。 騎馬武者は多くが結束している。刀は長く極めて鋭い。 弓は木製で矢は長く射程は短い。 人は勇敢で死を恐れない。
ここで苦戦の原因たる個人戦法が否定されています。
これらの文献でのポイントは、文永の役でも弘安の役でも日本に撃退され、元軍が海上をさまよう羽目になったことです。
よく蒙古兵がメインじゃないから日本が対抗できたという説をあげる方もいらっしゃいます。
遊牧民のモンゴル人の人口はそれほど多くありません。もともと元軍は多民族混成軍ですので、元寇の攻略軍だけが士気が低く弱かったわけではありません。また海上戦が苦手だから苦戦したのではなく、上陸したものの鎌倉の武士との戦により大敗したため海上戦を強いられてしまったということです。
また南宋滅亡後の弘安の役の江南軍は南宋兵の棄兵だとの説をあげる人もいらっしゃいます。わざわざ棄兵10万人を処分するために資材も金もかかる軍船を4400隻作る意味がわかりません。元の宿敵のカイドゥあたりにぶつけた方がましです。
武威によってユーラシア大陸に君臨するモンゴル帝国が、棄兵などのために大規模な遠征を起こせば帝国の維持に支障を起こします。そんなことで大敗すれば、モンゴル帝国の威信は大いに傷付きます。(国共内戦で降った将軍を朝鮮戦争と中越戦争に投入してきた極めてシナ人的な発想といえます。)
文永の役は威力偵察だという説をあげる方もありますが、まず威力偵察がどういうものなのか調べることをおすすめします。威力偵察にワールシュタットの戦いとほぼ同規模超の戦力を投入するとか、もはや意味不明です。また成果を伝えて報奨を得られたという文献も残っていません。
蒙古襲来絵詞