先の大戦の勝者 第3回
前回は、フランス第三共和政について確認いたしました。
今回はそのままの流れで、大英帝国の場合について確認したいと思います。
フランスと大英帝国については、ポーランドについて一言あったせいもあり、少々余談が過ぎましたが、個人的にはスッキリしました。
さて、大英帝国の場合ですが、ウィンストン・チャーチルは英国の最高レベルの英雄であるというのが一般的な通説となっています。
ナチスドイツに対して、弱腰外交しかできなかったチェンバレンに変わり、チャーチルが首相についたことで、欧州をナチス・ドイツの好きにはさせず、第二次大戦で英国に勝利がもたらした。(ちょっと言い過ぎでしょうか?)
こんな感じの認識ではないでしょうか?
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大英帝国
さて、今回も戦争目的と達成したか否かを冷静に見極めていこうと思います。
前回のフランス第三共和政の記事でも言及した通り、英国はフランスと同様、ポーランド・イギリス相互援助条約とポーランド独立保障をしていたので、ドイツのポーランド侵攻に伴いドイツに対し宣戦を布告しました。
戦争目的は、ポーランドの開放(東欧の開放)です。
第二次世界大戦の欧州の旧枢軸国と連合国21カ国との講和条約であるパリ条約以降、東欧はどうなったかと言うと、ファシスト政権(一党独裁政権という意)の支配下に置かれました。殺害者総数で見る限りナチスよりも残虐な支配が以後45年間続きました。
そういった意味で、前回のフランス同様、英国も戦争目的は達成できませんでした。
戦争目的という視点で見ると英国は戦勝国でありながら完敗と言っていいレベルの敗北を喫しています。
英国の外交は、かつてより一貫しており、欧州に巨大な国家(一強)を作らないというのが、英国防衛のための必須事項で、欧州の勢力バランスを常に取ってきました。
ネーデルラント(オランダ)の一員だったベルギーを欧州の緩衝地帯とするために独立させ傀儡化したりと、当時の法律の範囲内でかなりえげつないことをしてまで国家防衛に尽力してきました。
ネヴィル・チェンバレン首相が、第一次大戦後のヴェルサイユ体制における弱体化したドイツに融和姿勢を示したことも英国の歴代の外交姿勢からしてみれば、決して誤った選択ではありませんでした。
ネヴィル・チェンバレンは、ソ連の台頭をしっかり見据えており、独ソ対立を望んでいたと思われます。
ナチスに融和姿勢をとったせいで、ナチスの台頭を許したと悪名高いチェンバレンですが、ナチス同様ポーランドに侵攻したソ連を助け、ソ連に覇権を与えたチャーチルはどうなのかと視線も大事であろうと思います。
実際のところチェンバレンの融和姿勢が主原因というよりも、実際に世界的なプレゼンス増加を目指したアメリカの外交問題評議会(CFR)がヴェルサイユ体制のせいで欧州の戦後の景気回復が阻害されているのでドイツに対し融和姿勢を打ち出し、欧州の国家に対し口を出し、さらにドイツに対し巨額の投資を行ったことが大きな要因と言えます。
チャーチルの英国はアメリカからエンドリースを受けつつも、ドイツに対抗するため、ソヴィエト連邦に対して軍事物資や武器弾薬を供給しています。
当時の英国を守るためと言え、国際条約を反故にし、同盟国を見捨てた英国はポーランドから恨まれても仕方がないでしょう。
ウィンストン・チャーチルが首相になり第二次世界大戦が終わってイギリスの成果は、ブリテン島の防衛に成功したということのみです。北アフリカ戦線、西部戦線にしても「アメリカ」の援助のもとに反攻しています。経済、軍備ともにぼろぼろになりましたが、アメリカの援助により戦勝国という地位を得られたくらいでしょうか。
戦前、七つの海を支配していた大英帝国は、失われてしまいました。
他の敗戦国よりも戦後復興がうまく行かず、10年間配給生活を続けたとのことです。
最終的な鉄槌がくだされたのは、第二次中東戦争(スエズ動乱)ですが、没落のキッカケとしては十分でしょう。