中国共産党の歴史⑤

Tags

スポンサードサーチ

中国共産党に浸透されるアジア

 

1956年 中国カンボジア貿易協定

1960年 中国に軍事支援を受けた南ベトナム解放民族戦線が南ベトナム政府に武力攻撃開始

1964年 ソヴィエト連邦から技術供与を受け中華人民共和国が核兵器保有国化

1965年8月17日 インドネシア スカルノ大統領「ジャカルタ、プノンペン、ハノイ、北京、平壌の枢軸をつくるとしても、これは架空のものではない。」と演説。

1965年10月1日 インドネシアで共産クーデターが勃発するが、スハルトらが阻止

 

このようなアジアでの流れにアメリカ政府は共産党に対して脅威を感じはじめました。(対戦前から気がつけよ!と日本人が思うのは当たり前の話ですが、アメリカは昔からこんな国です。)

東南アジアを歴訪したジョンソン副大統領はケネディ大統領に対して「東南アジアで力と決意をもって共産主義に対して戦いを開始しなければ、アメリカは太平洋を明け渡してしまう。フィリピン、日本、台湾の安全は失われ赤い海となってしまう。」と報告した。

 

1962年12月の日米貿易経済合同委員会にてケネディ大統領は池田勇人総理に「今日、われわれが直面している重要な問題は中国における共産軍の増大であり、いかにしてアジアの共産主義の拡張を抑えるかである。われわれは共産主義のアジア支配を阻止するためにどんな役割を果たすことができるか。」と意見を求めたが「日本は中国と二度にわたって戦ったが、日本人の大部分は自分たちを侵略者だと思っている。」と答えた。(マイケル・シャラー 日米関係は何だったのか

 

 

アメリカの日本の核兵器保有容認論

 

1967年10月アメリカ大統領候補のリチャード・ニクソンは、ベトナム戦争の結果、アメリカは経済的に疲弊し世界の警察官として果たす役割は今後限られたものになるので(なんかこの論調最近聞いたことがあります)同盟国は「中華人民共和国の野望」から自らを守るための一層の努力が必要である。再軍備に対する憲法上の制約を嘆き、日本政府に大国らしく振る舞うように求めたが、そこには核兵器の所持も含まれていた。(マイケル・シャラー 日米関係は何だったのか

 

以前の記事でも紹介致しました、マイケル・シャラーの「日米関係は何だったのか」から引用いたしましたが、もう一度改めて紹介したいと思います。

 

1969年11月 佐藤総理・ニクソン大統領会談

沖縄の核兵器をアメリカ製から日本製のものへ変えるように促した。

 

1971年7月 メルヴィン・レアード国防長官

アメリカが安全保障努力を制限する代わりに、日本は東南アジアの国々に軍事援助費を提供し、日本の軍事力を増強し、将来の中国の脅威に備えるため対弾道弾ミサイルの配備に着手すべきである、と主張。アメリカ政府は日本の核武装に賛成していることを匂わせた。

 

1972年7月 訪米した佐藤首相とニクソン大統領の会談

日本はアジアで経済面だけでなく、軍事的役割も果たすべきだと主張。

佐藤首相は日本の国会と国民の圧倒的多数が核兵器に反対していると反論。

 

ソ連と中国の核の脅威に対して日本はアメリカと共に戦う意志はないと表明(とアメリカは受け取った。

 

※これら一連の流れをみて日本人の不甲斐なさを感じる場合とアメリカの自業自得だと感じる場合、人それぞれ持つ史観によって感じ方は異なるでしょう。ただ日本政府も日本国民もアメリカ政府もアメリカ国民も21世紀に至るまで日米が戦争した原因と反省が表立って総括できていないのが現状です。(和解、講和は済んでいますが、原因究明と再発防止措置が取られているとはいい難い。)

日本とアメリカのアカデミズムとマスコミは現在においても非常に共産主義に親和性が高い偏ったものになっています。(戦勝国であるはずのアメリカの方が実は日本よりひどい状況です。共産主義はグローバリズムと名を変えていますが、主義主張は殆ど変わりません。)

 

多くの日本人は「アメリカ」によって、日本はアジアの侵略者のレッテルを貼られ、軍備を制限されたと憤りを感じている方もいるでしょう。

もちろん日本と戦争した結果日本人に対して相当脅威を持ったということもあり、そういった部分がないとはいいませんが、GHQに存在したスパイや日本に浸透していた共産党スパイ、フロント政治団体の力がサンフランシスコ平和条約以降も日本の国家方針に日本国民の世論に影響を与え続け、日本に対しての工作が現在に至るまで実にうまく行ったと言える結果と言えるでしょう。(日米対立の扇動)

インターネットが普及し以前ほど情報工作、扇動がうまく行かなくなったといえども、「今日の防衛の問題のすべての元凶はアメリカによって引き起こされた」と感じ、憤りをアメリカに向けるようになると共産党の思う壺。笑いが止まらないでしょう。(あくまでもアメリカはきっかけに過ぎません。)

※当時のアメリカ民主党政権は、日本国が今後アメリカにとって脅威にならないようにしたいという思惑はありましたが、サンフランシスコ平和条約以降、自衛権まで否定する意図はありません。敗戦直後の文書には日本に対して一部過激な文書も残っていますが、レッドパージ、マッカーシズム以前と以後では区別して見る必要があります。

 

1971年8月 周恩来はアメリカの記者に対して、ベトナムからの米軍と撤退と並行して行われている日本の再武装を促すニクソン大統領の政策は日本の軍国主義の復活を助長している。と警告した。(現在も昔も中国は日本に対する主張、動きが一貫しています。)

1971年11月 沖縄返還協定の国会審議において「公明党」「非核三原則」の国会決議を提案し、国是へ格上げされた。社会党や公明党ばかりか三木武夫前外相までもが非核三原則を主張しました。(個人的に公明党が与党連立に参加している限り改憲は困難であると考えます。)

 

散々再武装と核武装の提案したものの日本側より良い返答が得られなかったので、当時のアメリカは日本に見切りをつけ、ニクソン電撃訪中に繋がりました。

 

つづく

1 支持する! 記事が気に入ったら支持する!をお願いします。